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芸術村あすなろ」を紹介するリーフレットには、渡辺礼子さんのつぎのような言葉がある。「あすなろは音楽教室ではありません。私達は、この芸術村あすなろで、子供達と一緒に“へぇー、すごいなぁ”“うわ、おもしろい”“ゲーッ、いやだなぁ”“もう、助けてよー”をたくさん体験し、この体に沸き上がってくるもの(自信)を頼りに、思い切り自分自身を叫べる、そんな体作りをしたいのです」、と。
 多摩丘陵と多摩川低地の住宅地域に四か所の基地をもち、500人の子どもをあずかり、「少年の祭典ボレロ~1000人の市民による大合奏・大合唱」のような数々の活動を生み出してきた芸術村あすなろ。その内容と活動のスタイルには、この地域がはらもうとしている〈来たるべき都市〉の新しい共同性の姿さえうかがわれる。子育てに不安をもつ親たち、保育園や幼稚園、小学校の教育に携わる人たちも、ここでなされている子育てや子どもと共に生きる団員たちの生き生きとした姿から、たくさんのものを受け取ることができるだろう。

 声楽家・安部嘉伸と門下生たち~「芸術村あすなろ」誕生

-「芸術村あすなろ」がどうして生まれたのか。生い立ちについてお話ください。
 私たち「芸術村あすなろ」をつくった最初の団員はみんな、洗足学園大学で安部嘉伸先生の門下生だったんです。安部先生は二期会出身の声楽家で、ドイツの劇場の専属歌手をされてから、さらにイタリアに留学して帰国し、洗足学園で講師をなさっていました。イタリアの明るさが好き、人間が好き、自然が好き、食べるのが好きで、求めて行ったのかなぁと思います。
 私は、先生がイタリアから帰られてすぐの頃、昭和54年(1979年)に洗足学園に入学しましたから、最初の頃の門下生。発声のレッスンはきびしく教えられて、夜九時、10時まで終らない。レッスンだけではないんですね。合宿とか、詩を朗読する会とか、音楽とは直接関係のない活動をどんどんやらされる。発表会では、いきなり自分でチケットを売ってこいと言われて、なんでそんなことまでするのかと反発したこともたくさんありました。
 安部先生が言うには、まず田畑を耕したり海で漁をしたりして自然に向き合っている第一次産業があって、その上に第二次産業の工業があり、さらに第三次産業といわれるサービス産業があるとすると、そういうものの一番上にあるのが音楽だ、というんです。人間の生きて働く姿がどうしてそのように分かれていくのか、働くとはどういうことなのか、そのことが解っていない人がうたを歌っちゃ駄目なんだ。うたを歌うときには、畑を耕すこともやってみる、海に行くこともやってみる、いろんなことを体で解っていなければ歌えないというんです。

-ふつうは専門のきびしいレッスンを受けていくことだけが声楽家へのだいじな道なのでしょうが、そこがまったくちがうのですね。
 発声のレッスンはほんとうにきびしかったんですが、それだけじゃほんとうにうたを歌う力を養うことはできない。音楽は、人間が社会の中でさまざまに生きている姿と響きあう力を備えたときにほんとうに生まれる。だから、自分が音楽をできる場をもたないと駄目だといつも言われました。どう音楽するか、どう表現するかということは、答えが一つあるわけじゃない。音楽は孤独な部分があるけど、だからこそ仲間が必要なんだ。若い人たちが音楽するときに、こういうことをすることがぜったい幸せなんだから、やりなさいと言われて門下生が集まってはじめたのが、「芸術村あすなろ」の誕生です。卒業した翌年の昭和58年3月、門下生11人がお金を出しあって親から独立しようと約束して、宮前平の1室を借り、「あすなろ音楽教室」を開室したんです。開室する前の2月半ばから3ヶ月間、チラシを作って仲間たちと1軒1軒しらみつぶしに訪問して「私たちは音楽が大好きな仲間たちです。名前も実績もありませんが、情熱だけはあります」と回りました。ふつうは親が子どもに音楽を習わせたいとか、そういう家の子たちを集めるわけですが、私たちは音楽が好きとか嫌いとか関係なかったんです。ともかく私たちに子どもを預けてくださいと、しらみつぶしに訪ねて、5月には300人の子どもが集まった。6月には宮崎台教室も開かれました。

-「あすなろのあゆみ」をみますと、少年少女合唱団、童謡教室、あすなろ夢の音楽会や各種教室の開室と、びっくりするような行動力で、発足して数年のうちに、ほぼ現在のあすなろ芸術村の原型ができあがったことが見えるようです。
 まだ世の中のことは何もしらないし、はじめて経験することばかり。先生には音楽監督をお願いしてひたすら先生がおっしゃることをやってきた。やりながら、「こんなこともあるんだ」「そうなんだ」と一つ一つ経験しながら、今のかたちが出来上がってきたんです。「あすなろ」がはじまって8年目に安部先生が亡くなり、先生の奥様である安部順子先生が音楽監督になられました。それからまた8年経ちますから、誕生のときには大学卒業間もない年齢だった私たちも、みんな30代後半になっています。その間にさまざまな活動が加わり、すこしずつかたちができあがってきましたが、基本の理念やかたちははじめた頃から変わりません。
 ただ、先生のおっしゃっていた言葉のほんとうの意味は、順子先生と一緒に音楽させていただくようになってから、「ああ、ほんとうはこういうことだったのかも」と思うことが多くありました。きっとまだまだ見えていないこともたくさんあるのだとは思いますが。

 音楽表現の原点は、子どもの中にある
 ~子どもの感性がどこで開くかをきちんと受けとめること

-子どもに音楽を教えることと、音楽大学を卒業して声楽家、演奏家としての表現の場をもちたいという思いとがあったわけですね。そのあいだをどう橋渡しして活動されたのでしょうか。
 基本は声楽家、演奏家である私たちが、子どもたちから純粋な感性をもらおう。子どもとともに過ごし音楽することで、私たちも成長しよう。子どもたちは同じうたを何度も何度も歌ってあきない。同じことを何度でも夢中でやりますよね。私たちが、子どものように何回歌っても何回演奏しても感激できるようになるにはどうしたらいいんだろう。私たちの音楽にとって大事なものは、子どもたちの中にある。けっして大人が子どもにむかって一方的に教えるということではないと思っています。子どもたちも私たちからもらってほしい。それは音楽でなくてもいいんです。
 私たちが考える音楽というのは、音楽が好き、嫌いというようなカッコつきの音楽ではないんです。「学校の音楽についていけないから教えてほしい」といったこととも関係ない。テキストを進めるとか上手になるということは結果的についてくることであって、それが目的ではない。子どもが伝えようとしていて、うまく表現できていないものをきちんと受けとめて、表現できる、声にしていく、響きにしていく、それが音楽。だから、私たちがちゃんと受けとめないと子どもたちは感性を閉じてしまう。
 私たちは、子どもたちがどこで感性を開いて豊かな力をだしていくのか、どこで感性を閉じさせてしまうのか、そこをきちんと受けとめてみつめて行きたいんです。そのことが体でわかっていれば、私たちが音楽家として表現するときにも、いちばん大切な音楽の核みたいなものをつかんで表現することができるはずです。そこで、私たちが表現できたものから、また子どもたちも感じてほしいのです。

 まず「地べたづくり」から

-「芸術村あすなろコース体系」では、年齢や表現方法によって段階的に「地べたづくり」「根っこづくり」「花づくり」まで、とてもユニークなコース体系がつくられていますね。これも今おっしゃった考え方を具体化したものですね。このコース体系づくりも安部先生のお考えでしょうか。
 みんなで、だんだんにつくりあげて行ったものです。「あすなろ子供教室」(幼稚園前の子どものための幼児科)には1歳半からの子どもたちが1人で通って来ていますが、どの子も音楽が好きです。幼児といっしょに音楽していると、人間で音楽がきらいという子はいないと確信します。理屈抜きに体を動かします。成長の途中のどこかで、「すぐできなきゃ駄目」「すぐ形にならなきゃ駄目」ってあせったり人と比べたりしては嫌いになる。小さいときからの音楽が好きという感性をだいじにして、育てていく。その中から音楽を仕事にしていくようになる人も出てくるかもしれないけれども、そういう人になるならないは関係ない。幼児ならみんな音楽好きということをもっと大切にしていく、そのことにずっと関わって私たちはやっていきたい。「地べたづくり」から「根っこづくり」「花づくり」とコースが上がって行っても、いつでも地べたがある、地べたにもどれるというものをコースの中に包みこんでやっています。
 地べたづくりでは、裸足体験をして直に地べたを感ずるようにする、農作業をして育てるよろこびを実感する。これは言葉で通じない体験、「あぁ、やっと育ったね」「これって、いいね」って、リトミックやって自由な体の表現をつかむ。子どもたちが種で、地べたが栄養がないと大きくならない。地べたのような私たち大人が栄養で、生まれた子どもたちの花がいっぱいに咲けるように地べたづくりをやろう。そのためには、教室で子どもたちに必要なものはどんどん取り入れてやる。中だけじゃなく外でもやっていく。ボレロの集いをやったり、オペレッタをやったり。

 サケの放流と夜行軍

-15年ほど前から多摩川でサケの放流をはじめた「川崎サケッ子の会」(伊藤弘一会長)の故・米山市郎前会長に安部先生が出会われて感激し、「芸術村あすなろ」でもサケの放流をはじめて10年になるそうですね。
 はい。安部先生が二子多摩川のこども文化センターに行ったとき、水槽にサケの稚魚がいて、スッと触ったらピッと機敏に動いた。それがすばらしいって。帰ってきてその話ばかりするんです(笑い)。それですぐ稚魚を教室にいただいてきた。最初の年はいっぱい死んじゃって大変。つぎの年からは親ザケを連れてきて、卵を育てて孵化して放流しました。

-夜行軍とか、合宿と青空演奏など、たのしそうな活動がいっぱいありますね。
 夜行軍、8年前からはじめたんですが、これがすごくいいんですね。子どもがお父さんといっしょに歩く。区間によってみんなでいっしょに歩いたり、お父さんと二人だけで歩いたりするんですが、その間に子どもがお父さんにうたを一つだけかならず教える。教室で習ったうたを教えるわけです。終着点ではお母さんが料理をつくって出迎えてくれる。そこでお父さん、お母さんと、子どもがいっしょにうたを歌う。お父さんは日頃、子どもといっしょのときが少ないでしょう。お父さんと真っ暗な道を歩くことで、お父さんの姿がしっかりと刻まれる。お父さんって、けっこう少年なんですよ、虫のことをよく知っていたり、どう捕らえるとか教えてくれる。とってもすばらしい思い出づくりになるんです。
 それから、4泊5日の山形県での合宿。安部先生の田舎が山形県で、廃校になった農業高校を借りてずっと地元と交流をしています。地域の子どもたちといっしょに「青空演奏」をやったり、元気いっぱいに遊んでくる。今年は市民まつりに地元の物産を持って参加してくれることになっています。1000人の市民による大合奏・大合唱をする「少年の祭典 ボレロ」もここからはじまりました。

 市民1000人のボレロ大合奏・大合唱

-ベートーベンの「第九」の合唱は全国ばやりですが、「芸術村あすなろ」が提唱してはじめた「ボレロ」の大合奏・大合唱は川崎だけ(?)、これはすばらしいですね。
 山形の合宿で地元の子どもたちと演奏会を開いてきたわけですが、はじめはどうしても一体感をもてなかった。一体感をもたせるにはどうしたらいいかというときに、ボレロだったら二つの旋律のくりかえしから成っていて、いろんな楽器が入ってできるんじゃないか。どんな楽器でもできるように編曲して、それをやろうと地元の子どもたちに投げかけたわけです。地元の学校の先生がうちは全員で参加しますと言ってくれたりして、大成功になった。私たちが帰ってからも、山形の子どもたちは学芸会や消防署の除幕式でボレロを合奏・合唱するようになったんです。そのことを作文や詩で送ってくれる。ビデオを送ってくれる。思いもよらないことが起こったわけです。そして、これだったら川崎でもできるんじゃないか。市民の活動として提案していこうと。はじめてのときは「働く者のまつり」で労働会館で実現することになり、それから現在のかたちになってきました。今年で25回目、毎年2~3回やってますから、11~12年になります。

 思い出のある子をつくろう

-いま子どもたちの問題が騒がれ、家庭での子育てのあり方や学校のあり方が問われています。「芸術村あすなろ」の子どもたちを見ていて、以前とはちがうものを感じますか。
 私たちは、小さいときから育てることを基本にしています。そして、小さいときから入ってくる子どもたちは、以前も今も変わらないと思います。子どもたちは、はじめは雑巾がけをやるとみんな「冷たい」「やだぁ」って泣いたりしますが、一時間半経つとみんな活力をもって帰ってゆく。音楽だけじゃなくて、畑をやったり合宿したり、いっしょに体を動かしていると、共通の言葉がもてて、みんなでいっしょにやっていこうねっていう力になっていく。途中から、ボレロを習いたいとか入ってくる子どもだと戸惑うこともありますが、すぐみんなに馴染んできます。ですから、子どもの根っこはすこしも変わっていないと思います。じゃ、すこし大きくなった今の子どもたちにとって、何が問題なのかなって思うときに、私たちがやっていることで感じるのは、「子どもたちが今いる中で、思い出すものがあるかないか」 ではないかなって思います。みんなでやってこんなに楽しかったという思い出がある人とない人とでは、ぜったいちがうと思う。良いことも悪いことも「うつる」んですね。「おまえは駄目だね」って言われつづけて、嫌な思い出ばっかりだったら、ほんとうに駄目になっていく。そういう子はひとりぼっち。苦しいときや自分の殻に閉じこもってしまいたくなるときに、もう一回あのときの気持ちや気分になってみたい、つくっていこうという楽しかった思い出があれば、それが支えになって生きていけるんじゃないか。音楽っていうのは、音楽と一体になることじゃないですか。良かったなという思い出、そこで一体だったんだという表現ができたという記憶が、今の子どもたちに無くなってきたことが問題なんじゃないでしょうか。
 夜行軍や合宿で忘れられない記憶をつくる。ボレロやるよといったら、みんな楽譜がなくたって、体に染みついちゃっていて、すぐ楽器が叩ける、声になる。それぞれに忘れられない好きなうたを育てていく。そういう思い出があるのとないのとでは、生きる力がまったくちがうと思う。

-子育て、教育ということの原点になるようなお話をありがとうございます。最後に、声楽家、表現者としての渡辺さんの抱負をお話ください。
 昨年、リサイタルをしました。それまで曲目はイタリアやスペインの歌曲ばかりでしたが、はじめて日本の歌曲を入れました。日本の歌曲を歌うのはとてもこわかったのですが、二年くらい前からほんとうに共感して歌えるような自分になりたいなと思うようになりました。安部先生が発声についてすごく悩んでいたときに、牛小屋で牛が「モォー」てすっごいいい声だして啼いたんですって。すっごく腹から自然な声出して。先生は牛の前に行って、ずうーっと眺めていて、どうやったらこういうふうに声を出せるのかなあって思ったっていうんです。
 声をさえぎるものというのは、はずかしさとか、自分の声は駄目なんじゃないかとか、いろんな意識が止めてしまうわけですよ。「私はこうです」って牛みたいに「エサがほしいーー」って言えたら、出てくる。子どもたちでも「音がずれてる」って誰かに言われたりすれば、意識が入ってくる。だから、「モォーー」ってすっごくいい声で表現できるようになれたらなと思うんです。(笑)

-たのしいお話をありがとうございました。

  クォータリーかわさき No・53(通巻53号)
平成10年3月発行
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